University of Tsukuba Men's Handball Team

「生い立ち」 町田健一郎

テーマ:お知らせ, ブログ

どーも!筑波大学の盛り上げ担当兼広報局長の町田健一郎です!

 

今回も生い立ちについて書かせていただきます。

ちょうど、就職活動期に入り「自己分析」なるものをし続けている最中なので、幾分か他の選手よりも詳しく書けると思います。

 

まずは私の大まかなプロフィールをご紹介します。

 

【出生】 1999年 沖縄県沖縄市 

【学歴】 高原小学校(小1~小2)⇒比屋根小学校(小3~小6)⇒美東中学校⇒コザ高校⇒筑波大学

【県代表経験】 琉球コラソンJr. (小6)、国体 少年の部(高3

【最近のマイブーム】韓国ドラマ鑑賞⇒梨泰院クラス、愛の不時着、それでも僕らは走り続ける、青春の記録、ヴィンツェンツォなど

 

こんな感じですねー。好きな女優とか好きな食べ物とかも書こうと思ったんですが、項目が増えるのもあれなのでこの程度にしておきます。

 

珍事件勃発の小学時代

 

一年に一度は耳が千切れるほど先生に怒られるという小学時代を過ごしていました。

しかしそれ以上に小学校でしか起こらないような珍事件も何度も起きていた記憶もあります。

まあ、とりあえず、学年ごとのやらかし&珍事を表にまとめてみたのでご覧ください。

 

学年

やらかした出来事&珍事

ブレット君の歯磨き粉を上の階の窓に投げ入れる

下校中、薬局の中で鬼ごっこしながら買い食い

下水道の小さい穴に向けて2階から唾を吐きいれるゲームで、

その唾が教頭先生の方にダイレクトヒットする

男性の担任を「おかあさん」と呼んでしまう

同期の松村よしたかという男と顔が瓜二つになる

腸炎、インフルでも学校に行き皆勤賞を受賞

(表1)珍事

 

えぐいでしょ?ていうか意味わからないでしょう(笑)

人生の中でもこの6年間には話せるエピソードがいっぱい詰まっているように感じます。

もし詳しいエピソードの内容が気になるのであれば、またこのブログで書こうと思います。

 

まじめな路線に戻しまして、私がハンドボール競技を始めたのは小学4年生の頃です。

6でマックスまで顔が似ることになる松村よしたかに当時誘われ、何となく行ってみよーと体験で行ったのがきっかけです。無心に黄色いボール追いかける日々、ルールも知らないスポーツを1から学べる新鮮さ、そして何よりハンドボール部の友達が周りに多くいたことは私をハンドボールの虜にさせた大きな理由でした。

同じくらい野球部の友達もたくさんいたのですが、当時「サラサラ73分けロング」だった私には丸坊主はとても険しい決断だったので、野球は諦めました。

 

それからは、学校と部活と公文を行き来する毎日を過ごしていました。

特に思い出に残った出来事は「琉球コラソンJr.」としてクラブの日本一に輝いたことです。決勝はあの駒沢体育館。日本リーグのプレーオフ前のエキシビジョンマッチとして行われ、「北陸電力ジュニアブルーロケッツ」を下した時の達成感は凄まじいものがありました。あの時の気持ちを何度も味わいたい!という気持ちがこれまでのハンドボール人生を支えてきたのかもしれません。

ちなみに北陸電力ジュニアには中村翼君がエースとして大活躍していました。この頃からすでに小学生離れしていて度肝を抜かれた覚えがあります(笑)

 

写真① 右から2番目 琉球コラソンJr.

 

激動の思春期、中学時代

 

 中学生はこれまた酷かったですねー。思春期に突入し、自分でもなぜか意味のないことでいら立ったり、妙に異性を意識しだしたりと人生の中でもなんか気持ち悪い時期だったと思います。(皆そうなのかも)

中学の時はとにかく県大会で勝てなかった。それに尽きます。

春中、中体連、この2大派遣を獲得できる試合で実力を発揮できませんでした。

春中予選は派遣がかかった決勝で浦西中に第2延長の末に敗れ、中体連では九州大会への切符をかけた準決勝で神森中に敗れました。

どちらも浦添市民体育館で負けていたことから「浦市民では派遣のかかった試合で勝てない」というジンクスがあるなあ、と仲間内で話したりもしていました。

 

 写真② 一番右の座ってるやつです

 

さてここで一旦、小休止を挟みましょう。

中学でも起こったしょうもない珍事件をここで紹介します。題名は「ペンキ事件」。

チームメイトで同じクラスだった田多という男とはこの時、とても互いをいじりあうような関係でした。意味もなくいがみ合ったり、無視したり、、、二人ともマジで頑固だったなあと今では思います。

ある日、僕が彼の教科書をわざと蹴ったことから事件は勃発しました。(この時点で私が悪いです笑)

学校が終わり部室へ戻ると私がいつも座っている椅子がまっっっかなペンキで染まっていました。

毎年1月、外コートのゴールの禿げた色の部分を塗りなおすために部室には赤と白のペンキは置かれています。田多はそのペンキを教科書が蹴られた仕返しに、私の椅子に塗りやがったのです。

せめて白に塗ってくれよと、意味が分からないケンカ台詞を言い、私も仕返しに彼の椅子にペンキをかけ返しました。

そうなったら誰にも止められない。真っ白な制服が赤く染まり、部室内もどんどん赤に包まれていきました。

さすがにキャプテンが止めに入りその場は収束。

しかし、自分の制服だけでなくお気に入りの靴までもが真っ赤になったことがあまりにもショックで、その日は練習に参加せず一人で、しかも裸足で歩いて帰りました。

しけた顔をした少年が真っ赤に染まって歩いている。きっと周りには私が若き殺人鬼にでも見えていたでしょう。

 

栄光と一途の高校時代

 

無駄な話が多いなー、と思っているそこのあなた。その通りです。無駄なことを話過ぎました。ここからはしっかりハンドボールの話をしていきます。

高校時代は紛れもなく、人生で一番ハンドボールに没頭した時期です。

高校1年の冬、「クライスト」という針きゅう整骨院の方をトレーナーに迎えて地獄の朝練が始まりました。これ以降、引退するまで学校のある日はほとんど朝練をするようになりました。

朝6時から高校の近くの急な坂で「坂ダッシュトレーニング」をしたり、県総合運動公園に集合し10㎞の長距離を走ったり、、、とにかく起きるのが辛すぎた!ただでさえ早起きで辛いのに!

だけどマネージャーの子たちは氷やボトルを用意しなければならないので、毎朝5時半には必ず準備をしてくれていたので一番大変だったのは彼女たちですね(笑)

今でもマネージャーの方々には本当に感謝しています。

 

そもそもなぜこんなに頑張るのか。

そう、我々コザ高校男子ハンドボール部がここまでするのには理由があったんです。

それが「打倒、興南!!!!」

 

実際にインターハイ沖縄県予選の結果を見てみると分かるのですが、当時コザ高校は興南高校に5年連続で、決勝で敗れていました。

その時の恩師・神里太先生はその負けを全て経験していたこともあって、絶対に興南に勝って、神ティー(=神里先生)に胴上げを_____そんな思いがチームの中で大きな原動力にもなっていました。

 

しかし現実はそう上手くはいきません。

9月の選手権大会、10月の新人大会ともに決勝で興南に敗れ、チームも少し落ちてきているような雰囲気がありました。

そうして迎えた全国選抜県予選、その1回戦でチームのDFの中核を担っていた髙島という男が前十字靭帯断裂という大けがをしてしまいました。

決勝にすらいけないかもしれないと誰もが思っていたと思います。

その準決勝、相手は浦添高校。公式戦では負けたことはありませんが毎回接戦する相手なので油断はできません。コザ高校が勝つだろう。大方の予想はそうでした。

前半はこちら優勢で試合を進めていましたが、後半懸念していたDFで崩され一気に逆転され後半残り1分半で3点ビハインド。

舞台はあの浦添市民体育館。

私の脳裏には「派遣のかかった試合で負ける」というジンクスがよぎっていました。しかし一人だけ全く諦めていない選手がいました。

チームで一番実力のある我如古です。彼はそのわずか1分半のうちに3点を決めて見せ、延長の末チームを大逆転勝利に導きました。後にも先にもこんな勝負強い選手はいないとその時思いました。

そんな「一度死にそうになってから生き返った」試合を乗りこえ、ついにむかえた決勝では何も失うものはない、というマインドをおそらく全員が持っていました。前半から点差を突き放し、サイドもミドルも速攻もDFも、すべてがガチッとはまっていました。結局前半のリードを一度も譲ることなく、私自身も自己ベストの10得点を記録し、チームは優勝を果たしました。コザ高校が興南に勝利したのは50数年ぶりだとか。

 

勝利した瞬間、涙がとまりませんでした。嬉しくてこんなに泣いたのは人生で初めてでした。

そしてとうとう、恩師である神里先生をこの時初めて、胴上げしました。普段は怖くて威厳のある先生が宙を舞う瞬間は、嬉しさと感動と面白さが入り混じり、何が何だか分からない感情でめちゃくちゃに顔が崩れていました。

 

まとめると、一途にハンドボールボールに打ち込み、そこでしっかり結果を出せたことは私の人生の中でも大きな意味を持つ出来事になったということです。高校時代に経験した朝練の辛さや、優勝の熱狂は確実に今の私を形作っているのです。監督の神里先生には本当に感謝しかありません。

 

写真③ めっちゃ久しぶりに興南を倒した時の

 

さまざまな“高み”を目指す今

 

大学は推薦入試で筑波大学社会・国際学群社会学類に入学しました。

辛い受験を乗りこえ、華々しい大学生活が待っている…!そう浮かれたのもつかの間、「新入生テスト」という厳しい壁に早速ぶつかってしまったのです。

とにかく腹筋が苦手でしたーーーー。泣

何回やっても記録が伸びずほんとに苦労しました。同期の矢野直伝の“浪商腹筋”という地獄メニューをこなすことでなんとか当日のテストをクリアすることが出来ました。

 

あれから3年、新1年生が必死に毎日新入生テストに励む姿を見て、時間がたつのは早いなあと感じるばかりです。あの頃65kgとひょろひょろだった体も今は80kgに成長し、ある程度当たり負けしない体になってきました。

ことしもコロナの影響で春リーグが延期になっています。おそらく春リーグは無くなるだろうと勝手に覚悟を決めています。

 

私に出来ることは残り少ない競技としてのハンドボールを全力で取り組むことだと思っています。

今回、このブログを書くにあたって「何故ハンドボールをしているのか」をたくさん考えました。

小学時代から今までを振り返って導き出された答えは紛れもなく、チームメイトといるのが一番楽しいからです。最高の仲間たちと高みを目指すのがとても楽しいからです。

そしてその想いは、たとえコロナのせいで大会がなくなったとしても消えるものではありません。“高み”は形を変え、SNSの発信やYouTube活動、リモートでのトレーニングなど、常に先を見据えて、自分たちに今できることは何かを考え続けることがとても大切だと思うのです。

 

いやー、やっぱり自分の生い立ちを振り返ると、このような子供のころから形成された価値観が浮き上がってくるからとても面白いですね!

 

コロナ渦で一人の時間が増え、何かと自分のこと、自分の未来のことを考えることも多くなったはずです。

皆さんも一度自分の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?

 イェーイ!

 

町田 健一郎

写真④ 意外と好きな写真(笑)

 

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